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常識の罠と『コロンブスの電磁気学』

2006517

宇佐美

 私は、この数年「電磁気学」の研究に打ち込み、この度『コロンブスの電磁気学(The Electromagnetics of Columbus’ Egg):春日書房発行』に、その成果の一部を纏め上げる事が出来ました。

 

そして、この著作『コロンブスの電磁気学』に示された私の全ての研究成果は、今まで長年の間、誰もが固く信じてきた電気に関する常識(理論、法則など)を殆ど全て覆しているのです。

 

 私は、小中学校以来、“電気はプラスからマイナスへ流れ、その反面、電子(マイナスの電荷を持っている)はマイナスからプラスへ流れる”と教わってきました。

そんな時、私は“電子が持っている電荷をプラスとしてしまえば、電気である電子はプラスからマイナスへ流れるとなり話が分りやすいのに!”と憤慨していました。

 

 電線は2本でペアを組んでいますが、何故2本必要なのでしょうか?

往きの電気の為の1本と、帰りの電気の為のもう1本?

なにしろ、電気は、1秒間に30万キロメートル(厳密には、電気を伝える導線の周囲が、真空(せいぜい空気)の場合)も進むのですから、どっちの線が行きで、どっちの線が帰りの線だか判断が付きません。

でも、今の時代の測定器では、この判断が付くのです。

(この件の詳細は、拙文《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい)

 なにしろ、現在の科学は「ナノ」の世界なのです。

「ナノ」とは、10のマイナス9乗の世界(109回掛け合わせた数で割った世界)、即ち、10億分の1の世界なのです。

ですから、1秒の10億分の1にすると、1ナノ秒となります。

では、この1ナノ秒で進む電気の距離は?

30万キロメートル(300億センチメートル)を、10億分の1にすると、30センチメートルとなります。

 

 従って、このナノ秒の単位で、電気の動きを見ると、どちらの線が行きでどちらの線が帰りの線かが分ります。

そして、分った結果が、「行きも帰りもなく」電気は両方の線を全く同時に進行していたのです。

まるで、2本のレールの上を電車が走るように、2本の電線に乗っかって電気は走っているのです。

そして、この電気とは電磁波なのです

(電磁波とは、一般的には電波と呼ばれています。)

決して電線の中を電子や電気が走ってゆくのではないのです

2本の電線に沿って電磁波が走る事は、以前からも認められていました。

でも、その一方で、いつまでたっても、「電気(電子)は電線の中を走って行く」との概念(常識)を捨て切れませんでした。

 

 でも、私はこの尻尾のように付きまとっている「電気の常識」を完全に払拭することによって、新たに、縦列接合の存在を発見しましたし、この延長で、コンデンサやコイルに対する新しい理論を打ち立てる事が出来ました。

更には、現在のトランスや、発電機、モーターなどの基本原理であるファラデーの法則(電磁誘導の法則)も否定して、新たな理論を提起しました。

(詳細は、先の拙文《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい。)

 

 しかし、不思議なことに、私によって覆された電気の理論法則にて、電車も動いていますし、テレビを楽しみ、携帯電話も利用できます。

 

 「地動説」を信じようが「天動説」に固執しようが、日々の生活は殆ど影響ないかのように。

 

 例えば、月刊大和路「ならら」200310月号には、先々代の薬師寺管長橋本凝胤師の“橋本『天動説』”に関して次のように記述しています。

 

徳川夢声も舌を巻いた『天動説』

 

橋本凝胤が週刊朝日の「問答有用」と題した連載で徳川夢声との対談の中で『天動説』を唱えたことは有名だ。徳川夢声は無声映画時代の名弁士で「語りの神様」と評された。

 『地動説』−天体物理学でいえば太陽があり地球が自転しているというのはだれもが知っている常識である。しかし凝胤は 「こっちがじっとしているのに、朝になっておてんとさまが出てくる、向こうが勝手に動いてるのやよってな。天動説でちょっとも困らんもの、それでええやないかな」と言い、これが橋本『天動説』として定着してしまった。さすがの夢声氏もこれには舌を巻いた。世間的には凝胤は時代錯誤の頑固坊主と映ったらしい。理屈だけで物事を考えるのではなくシャカの時代からお日様の恩恵を受けて人間は生きてきたことを忘れてはならないということを人びとに語っていたのである。文明批評・アイロニーであった。

 

 自分の信条を曲げない凝胤は有名な尼僧が寺を訪ねてきても決して寺に入れず、また持参のみやげを口にもしなかったそうである。

・・・

 

 確かに橋本師の「シャカの時代からお日様の恩恵を受けて人間は生きてきた」との言に見られますように、「お釈迦様も、地動説をご存じなかった」のです。

でも、地動説をお釈迦様がご存知でしたら、別の教えも残されておられたかもしれません。

 

 「こっちがじっとしているのに、朝になっておてんとさまが出てくる、向こうが勝手に動いてるのやよってな。天動説でちょっとも困らんもの」との発想を私は嫌っています。

このような発想からでは結局、「地球の周りをお日様が回っている」即ち「地球が中心的存在」、更には、「地球の中でも、日本がその中心」となって、挙句の果ては「愛国心」とつながって行きます。

 

 今や日本中では『国家の品格(藤原正彦:新潮新書)』がもてはやされています。

その著の中で新田氏は、美しい四季のある日本を賞賛していますが、幾ら日本の四季を自慢しようが、地球上に日本だけが孤立して存在していては、四季などないのです。

一年中暑い、私達にとっては住み難いと感じる熱帯地方がなくては雨を齎す熱帯性低気圧もやってきません。

中国大陸がなくて海だとしたら、寒い北風なども来ないでしょう。

ですから、新田氏の唱えるお国自慢は、先ずは周辺の国々への感謝の心から始まるべきです。

自慢したり誇るのは、程程にして頂きたいのです。

 

 文化にしてもそうです。

私が、いつも聴く音楽は、いわゆる西洋音楽です。

私はこの拙文を書きながら、ロシアの作曲家チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を聴いています。

(演奏は、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、指揮は小林研一郎(ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、チェコ・フィル常任客演指揮者ネザランド・フィル、九響首席客演、東京芸術大学教授、東京音楽大学客員教授)です。)

 

そして、この曲自体も多くの国(地方)が関わりあっています。

この曲の作曲の経緯を、諸石幸生氏の書かれたCDの解説書を参考にさせていただきながら書かせていただきます。

フランスの作曲家ベルリオーズがイギリスの詩人バイロンの作品(「チャイルド・ハロルド」)に基づき作曲した交響曲「イタリアのハロルド」を、ロシア旅行中に自演した結果、ドイツ的伝統とは異なる作曲法にロシアの作曲家達は大きな影響を受け、めぐりめぐって(1885年ごろ)チャイコフスキーがそのバイロンの劇詩「マンフレッド(主人公はアルプス山中に住む城主)」によって作曲することとなったのだそうです。

 

 ですから、『国家の品格(藤原正彦著:新潮新書)』の下記の記述のように、日本の文化だけを誇るのは見当外れのように私には感じるのです。

 

例えば五世紀から十五世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。

一方、日本は当時すでに、十分に洗練された文化を持っていました。文化的洗練度の指標たる文学を見ても、万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草……と切りがありません。この十世紀間における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上、と私は思います

 当時のヨーロッパは、その程度のものでした。よほどの文学好きでない限り、五世紀から十五世紀までのヨーロッパの生んだ文学作品を三つ挙げられる人は少ないのではないでしょうか。

 英文学も今では威張っていますが、有史以来一五〇〇年までの間にどんな作品が生まれたか。『カンタベリー物語』ぐらいしか頭に浮かばないでしょう

 

 そして、今の時代に「文化的洗練度の指標たる文学」と規定するのは如何なものでしょうか?

今の日本では、藤原氏の『国家の品格』は大ベストセラーのようですが、「文化的洗練度の指標たる文学」はどの程度売れているのでしょうか?

 

 ノーベル賞作家の大江健三郎氏に関して、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」にて、次のな記述を目にします。

 

核兵器や、憲法第9条、総理大臣の靖国参拝などの政治問題についても、国内外で積極的に発言し続けている。2004年には、改憲を防ぎ、現行の憲法を守り、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的とし、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている

 

 そして、この大江氏の思いは、日本人の指標となっているのでしょうか?

(私は、大江氏の思いは「日本人の指標」に留まらず「世界の人の指標」であるべきと存じますが。)

 

 藤原正彦氏は国家の品格』に於いて次のような戯言を書いて、(不思議なことに)日本人の多くの方々の共感を得ています。

 

初等教育で、英語についやす時間はありません。とにかく国語です。一生懸命本を読ませ、日本の歴史や伝統文化を教え込む。活字文化を復活させ、読書文化を復活させる

それにより内容を作る。遠回りでも、これが国際人をつくるための最もよい方法です

 

 現在は、「日本人だ!」「国際人だ!」といっている時代でしょうか?

地球上に存在する全ての人は「地球人」です。

先に掲げた音楽に於いても、少なくとも120年も前には国境を越えた存在となっています。

(それに、今年は、多くの日本人が愛しているモーツァルトの生誕250年です。)

従って、藤原氏の次の論は葬られなくてはならないし、そんな藤原氏の論に心を奪われている日本人は反省しなくてはならないのです。

 

 国民に受けるのは、「国際化だから英語」といった、いちばん分かり易いワンステップの論理だけです。ある大新聞の世論調査によると、小学校で英語を教えることを、八六%の国民が支持しているといいます。こうやって国民が国を滅ぼしていくのです。

 中央教育審議会も文部科学省も教育学者も、いい加減に考えているわけではない。一生懸命、何度も何度も討議して、誠心誠意考え抜き、その末に小学校での英語などという馬鹿げた結論にたどり着いたのです。

 審議会なんかに出てくる人たちは、ある意味で日本の知性を代表するような人たちでしょう。本当にそうであるかどうかはともかく。その人たちが、「国際化に対応するにはどうしたらよいか」ということを、論理的に考えた結果がこれです。

 こんな例を出さなくても、人間が戦争を繰り返していることを見れば論理の限界なんて明らかでしょう。古今東西あらゆる時代のあらゆる場所で戦争をして、すべての人が「こんなバカバカしいことはない」と涙ながらに反省して、そしてまた戦争を繰り返してきました。どの戦争にも当事者双方に論理がありました。戦争が紛争解決の最善の手段であるかどうかは、いつも的確には判定できなかったのです。

 論理的に得られた結論は盤石ではないのです。いったん論理が通るやホッとして、往々にして他のもっと大切なものを忘れたり、他の解決法に目がいかなくなったりするのです。論理は魔物と言えるでしょう。

 

 多くの日本人は、特に肩書きに弱いようです

藤原氏は「数学者」の肩書きを持っておられます。

となりますと、先の拙文『国家の品格について(2』に於いて引用させて頂きましたように、次のようなこととなります。

 

福田和也氏は、週刊新潮(20051222日号)のコラム「闘う時評」にて、次のような記述しつつ(無批判に)紹介しています。

 

 西洋の論理、合理性を批判した議論は、日本においても、また西洋自身のうちにあっても、古来たくさんなされてきましたが、本書のきわだつた特徴は、著者は、ケンブリッジで教授もつとめた、当代一流の数学者、つまりは論理の達人であることです。日々、論理の場で闘い続けている人であるからこその、論理の限界にたいする認識が、単刀直入に語られているのです。  

  

 

 私は、この福田氏の肩書きにて、著作の内容を判断する態度には賛成できません。

(この福田氏の態度は、或る意味日本人の典型なのでしょう。)・・・・・・

 

  (補足)福田和也氏の肩書き:文芸評論家、慶応大学教授

 

 この福田氏が「論理の達人」と思い込まれている藤原氏は、決して「論理の達人」ではありません!

藤原氏は氏の著作の中で、次のように記述されています。

 

 論理が破綻する三番目の理由は、「論理には出発点が必要」ということです。

論理というものを単純化して考えてみます。まずAがあって、AならばB、ならばCCならばD……という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「Aならば」という場合の「ならば」が論理です。・・・このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく、主にそれを選ぶ人の情緒なのです。宗教的情緒をも含めた広い意味の情緒です。

 

 この見解は、ある意味では、尤もでありましょう。

でも、

 私は、適切な論理のもっとも大事な構成要素が、
適切な論理の出発点の選択であると認識しています。


 不適切な出発点からの論理は、論理ではなく屁理屈と存じます。

(この名手が、小泉首相ではないでしょうか?)

ですから、藤原氏が論理の天才だとしたら、先の「戦争の愚劣さに関する」記述はどうして出てくるのかが疑問なのです。

その記述を再掲します。

 

古今東西あらゆる時代のあらゆる場所で戦争をして、すべての人が「こんなバカバカしいことはない」と涙ながらに反省して、そしてまた戦争を繰り返してきました。どの戦争にも当事者双方に論理がありました。戦争が紛争解決の最善の手段であるかどうかは、いつも的確には判定できなかったのです。

 

 「紛争解決の最善の手段」を論理の出発点に選択してしまうから、「戦争を繰り返してきました」となってしまうのです。

私達の大事な論理の出発点は「戦争ほどばかばかしいことはない!」です!

 その「バカバカしい戦争を避けるためにはどうすべきか!」が尤も大事な論理の出発点であるべきです

 

 此処で、朝日新聞(天声人語:2006年05月16日)から一部を引用させて頂きます。

 

核兵器の廃絶を目指す運動に尽力した湯川スミさんが亡くなった。日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏の妻で、世界連邦世界協会の名誉会長だった。

 

 戦後、スミさんは夫と米国に渡った。同じ研究所に居たアインシュタインが、原爆開発の一端となったことを深く後悔し、秀樹氏に言ったという。「戦争が起こらない仕組みをつくらないといけない。そのためには世界を連邦にするしか道はない

 

 共感し、自らも核廃絶を希求した秀樹氏は、がんを患ってからも言い続けた。「君が運動の先頭に立て」。この言葉を胸に抱き続け、96歳で夫の元に旅立った。

 

 (肩書きに弱い)福田和也氏を初め多くの日本人は、藤原氏如きの論理(屁理屈?)に現(ウツツ)を抜かさす愚かな状態を早く脱却して、桁外れな論理の天才であり藤原氏より格段優れた肩書きを有され、実績を示された「アインシュタイン」の言葉「戦争が起こらない仕組みをつくらないといけない。そのためには世界を連邦にするしか道はない」を真摯に受け止めるべきではありませんか!?

 

戦争は、いかなる理由にしても許されるべきではないのです。

(「小泉氏の改革の為には、辛さをこらえる」と誓ったのは私達日本人ではありませんか?!

その私達が戦争をしない為には、辛さをこらえる事が出来ない筈はありません。)

 

 竹島が、日本の領土か? 韓国の領土か? 竹島にとっては迷惑な話です。

(竹島はあくまでも地球の一部分です。)

地球上の一部の地域を、自分達の領土だ!などと決めるのは、地球に対して不遜な態度ではありませんか!?

 

 ジョン・レノンの“イマジン”に歌われているように「国境なんてないのだ」との境地に立てばもっともっと新しい視野が開けてくるのです。

 

「電気は電子の移動ではない!」と言われては来ましたが、でも、結局は「常識の罠」に囚われ、その考えを貫き通して電気の本質に立ち向かってきた人がいなかったのでは?

私は『コロンブスの電磁気学』に於いて、この境地を保ち続けることで、新しい視野が開け、新しい法則理論に出会えたのです。

 

ですから、私達は、”「常識の罠」に囚われる”ことなく、アインシュタインの言葉「戦争が起こらない仕組みをつくらないといけない。そのためには世界を連邦にするしか道はない」の考えを貫き通す気構えを持ち続ける事が大切なのだと存じます。

 

 

(補足)

 

 「独創的な仕事は若い時期に可能」は常識です。

そして、私の友人達の殆どは、「隠居生活」を楽しんで(?)居ます。

でも、私は、今回ファラデーや、マクスウェルに十分以上に対抗できる独創的な『コロンブスの電磁気学』の研究執筆を遂行しました。

年をとっても独創的な仕事は可能です

どうか、皆様も常識の罠にとらわれずにご自分の力を存分に発揮してください。

 

 更には、米国は“「冷戦は終了した。これからはテロとの戦争だ」その為に、米軍の再編成をする。”との事です。

しかし、

テロと軍隊が戦争して解決しますか?

イスラエルとパレスチナはどうでしょうか?

アフガニスタンやイラクの今後はどうなるのでしょうか?

軍隊がなんの役に立つのでしょうか?

世界最強の米国軍が勝利しましたか?
なのに、何故日本が軍隊を欲しがるのでしょうか?

もう私達は、「軍隊は必要だ!」「軍隊は必要悪だ!」等との
常識を破棄する時ではありませんか?!

 


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